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6話. カメラの止まったヨット

Author: 6jay
last update publish date: 2026-10-09 12:45:50

撮影が止まると、かえって話しづらくなった。カメラがある間は、それぞれ役割があった。

一ノ瀬怜奈は悪女役の追加メンバー。黒崎怜司は大物俳優。桐生直人は冷徹な実業家。神崎蓮は荒々しいチャンピオン。赤い撮影ランプが消えた今は、ただの四人だった。

「船酔いですか?」

黒崎が尋ねた。

「少し」

彼はテーブルにあったエチケット袋を滑らせた。

「我慢しないで。我慢したままカメラが回ったら、余計に目立つ」

「経験談ですか?」

「船酔いじゃないけど、2日酔いの演技をしていて、本当に吐いたことなら」

怜奈は噴き出した。黒崎もつられて笑った。

カメラの前で見せていた余裕のある表情とは、少し違った。よく見せるために作った顔ではなく、疲れた人が一瞬だけ力を抜いた顔だった。桐生は船内のWi-Fiにつなぎ、天候を確認していた。

「あと二十分ほどで風が一番強くなります。その後は弱まるそうです」

神崎が聞いた。

「何でそんなの見てるんだ?」

「わからないと、余計に不安になる人がいるので」

彼の視線が一度、怜奈に触れて戻った。怜奈が言った。

「私ですか?」

「さっきから、船が傾くたびに時計を見ています」

「皆さん、人のことを細かく見すぎです」

黒崎がすぐに返した。

「職業病です」

桐生も言った。

「私も」

神崎は肩をすくめた。

「俺はただ、見たいから見てるだけだけど」

一瞬、静かになった。神崎だけが、なぜ静かになったのかわからない顔をしていた。

先に怜奈が視線をそらした。

「それ、カメラが回っているときにも言ってみてください」

「何で?」

「反応がよさそうなので」

「俺は視聴率のための道具か?」

「私もそうでしょう」

神崎の顔が、一瞬こわばった。返事はしなかった。

***

ヨットが進路を変えると、揺れは少しずつ小さくなった。制作陣が撮影再開の可否を尋ねたが、船長は入港まで、安全のために移動しながら撮影しないよう求めた。結局、残りの時間は丸ごと、撮影のない時間になった。

怜奈はむしろ、その隙に桐生へ契約書の話を持ち出した。

「昨日の条項、もう一度見せてもらえますか?」

「もちろんです」

桐生はタブレットで自分の契約書を開いた。怜奈もスマートフォンに保存した契約書の写真を出した。

同じ項目を照らし合わせていく。大部分は同じだった。

問題は別添だった。怜奈のものにだけ、【制作陣が設定したキャラクターの方向性に協力する】という文言が加えられていて、具体的な範囲がなかった。

「違法だと断定できるほどではありません」

桐生が言った。

「ただ、揉め事になりやすい書き方です」

「もう署名してしまったら、終わりじゃないんですか?」

「違います。契約したからといって、身体の安全や人格権まで放棄するわけではありません」

彼は画面を拡大した。

「具体的な行動の指示があれば、記録しておいてください」

怜奈は、昨夜撮ったカードの写真を見せた。桐生の表情が、初めてはっきり変わった。

「これは保管してください」

「どうしてですか?」

「『荒々しい一面を引き出す』と『暴力性を誘発する』は別です。制作側がどこまで要求したか、後で争いになったときに重要になります」

怜奈はスマートフォンを再びロックした。

「社長って、こんなところまで自分で見るんですか?」

「契約書を読まずに署名するのが嫌いなので」

「私は、してしまいましたけど」

「だから今、読んでいるんでしょう」

責めるのではなく、事実を述べる口調だった。不思議と、嫌な気はしなかった。

そのとき、船内の照明が安定してついた。少しして、撮影チームが機材の電源を入れ直した。

黒崎は離れた場所から二人を見ると、言った。

「カメラが止まってる間に、二人だけ随分進んだんですね」

怜奈はすぐに言い返した。

「契約書の話です」

「契約書まで一緒に読んだなら、かなり深いところまで踏み込んだな」

黒崎が桐生へ笑みを向けた。

「桐生社長。女優を一人引き抜くつもりなら、俺もまず契約書を読まないと」

「一ノ瀬さんは、どこの会社の所有物でもありません」

桐生が無造作に答えた。怜奈は二人の間に口を挟まなかった。

代わりに、小さく笑った。初めて、この男の言葉を気に入った。

ヨットが桟橋へ着くころ、制作陣から再び無線が入った。

――全員下船後、安全会議を行います。それと、カバナの無許可カメラの件で、今夜の撮影は一部中止になる可能性があります。

怜奈は外を見た。デートより大切なことができていた。

誰が、なぜ、撮影許可もないカメラを島に設置したのか。その答えはまだなかった。

桟橋に着いたときは、小雨が降っていた。安全担当者が先に降りて、滑り止めのマットを敷いた。出演者は一人ずつ下船した。

怜奈が最後の段を降りると、田代が傘も差さずに近づいてきた。

「大丈夫か?」

「はい」

「今日は使える尺が、かなり飛んだよ」

心配する順番がおかしかった。怜奈はじっと彼を見た。

「誰も怪我をしなかったことが、先じゃないですか?」

田代は答えなかった。その間に、安全担当のプロデューサーが割って入った。

「今日の撮影はここまでです。まず、機材事故の報告書を作りましょう」

怜奈は濡れた髪を後ろへ払った。同じ制作陣の中でも、優先順位は違う。

その違いは、覚えておく必要があった。

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